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龍馬ゆかりの鞆の浦 海援隊知らしめた沈没事件 (産経新聞)
- 2010.01.23 Saturday
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- by lmwgr5vru9
【龍馬ゆかりの地を行く】
最近の景観論争で一躍、脚光を浴びている「鞆の浦」(広島県福山市)。しかし、実は歴史上の大事件の舞台でもあった。幕末の志士、坂本龍馬とのかかわりで知られる、慶応3(1867)年に起きた「いろは丸沈没事件」である。国内初の蒸気船同士の衝突事故で、沈没した船に乗っていた龍馬ら海援隊一行は鞆の浦の中心部にあたる鞆に上陸。事故の相手方の紀州・徳川家と賠償交渉で堂々とわたり合い、海援隊の名を世間に知らしめた。
事件の概要は、次のようなものだ。慶応3年4月23日夜、宇治島(現広島県福山市)沖で、龍馬率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」(160トン)が、徳川御三家のひとつだった紀州の蒸気船「明光丸」(870トン)と衝突、沈没した。龍馬ら海援隊一行は明光丸に乗り移って鞆の浦に寄港、紀州側と4日間にわたって賠償交渉を行った。その後、舞台は長崎に移り、交渉は難航したが、最終的に龍馬側が紀州側から多額の賠償金を勝ち取った。
舞台は、護岸に石を階段状に据えた「雁木(がんぎ)」や、港のシンボルである石灯篭(とうろう)の常夜灯、国重要文化財の「太田家住宅」など、江戸時代から残る数少ない港湾遺産にも近い。
「当然、龍馬や海援隊の一行も、この雁木を踏みしめて行き来したはず。雁木は歴史を伝える生き証人であると思います」
江戸期の蔵を利用して近くに開設された「いろは丸展示館」館長の赤松宏記さん(67)は、こう語る。
× ×
沈没現場の過去の潜水調査結果や、龍馬と鞆の関係など、貴重な資料が並ぶいろは丸展示館。引き上げられた帆船の滑車や索具、船室の蛇口やドアノブ、燃料の石炭。さらに、龍馬が鞆で滞在中に泊まった商家内で、用心のため使ったとされる隠れ部屋も再現、龍馬の息吹が伝わってくる。
「龍馬は、ファンの年齢層が幅広いことが特徴。リピーターを期待して、龍馬には町おこしに一役買ってもらったわけですが、人気は期待以上」と、赤松さんは話す。
鞆に残る龍馬ゆかりの地は多い。港から古い民家が軒を連ねる町並みをしばらく行くと、「御舟宿いろは」がある。事件で、龍馬らが紀州徳川家との賠償交渉で使った町役人の亀屋万蔵の旧宅を修復、改装した宿屋だ。
「家は歴史的に貴重な史跡。周辺の古い家屋もなくなりそうな危機感もあって、購入、運営を決断しました」と、NPO法人「鞆まちづくり工房」代表理事の松居秀子さん(58)。
白壁と格子に、色とりどりのギヤマンの窓が組み合わさった外観。入り口近くに喫茶室があり、奥には交渉の場となった部屋が再現されている。龍馬が残した走り書きをしたためた掛け軸や写真も飾られている。
松居さんは、鞆の浦の景観保全活動にも取り組み、鞆港の埋め立て架橋計画をめぐって反対住民が起こした訴訟では、原告団の中心的存在だ。
「紀州相手に談判する龍馬は、裁判を闘う私たちと、ある意味、似ており、その自在な活動は市民運動につながる面もあります。今考えてみれば、ご縁があったのかも」
自身の境遇をいろは丸沈没事件と重ね合わせ、松居さんは龍馬の雄姿に思いをはせた。
× ×
「鞆ならではの史料は、いろは丸しかない。原本を探し出して展示したい」
鞆港や瀬戸内の島々を一望できる地に建つ「鞆の浦歴史民俗資料館」。平成20年秋、特別展「坂本龍馬といろは丸事件」が開かれた際、同館学芸員の園尾裕さん(56)は、史料探しに奔走した。
園尾さんが求めたのは、昭和63年出版の「龍馬全集」(宮地佐一郎編、光風社)に収録された「いろは丸航海日誌・付録草稿」。研究家数人に尋ねても分からず、博物館などに調査を依頼するなど手を尽くした。
それでも見つからず、あきらめかけたころ、NHK新潟放送局が20年前に放映した番組で、この史料を使っていたことを知った。
所有者はすでに故人となっており、遺族から「原本は不明だがコピーがある」と返事があった。原本ではないが探し続けていた史料に、ようやくたどりついたのである。
「コピーは全部で32枚。最初の表紙は(海援隊士の)長岡謙吉以外の筆で『坂本龍馬手記イロハ丸航海日誌』とありました。史料は展示が終わって撤収すれば何も残らない。だから記録集を残すんです」
龍馬が鞆の浦にもたらした夢のような話をもうひとつ。鞆と対岸の仙酔島を結ぶ市営乗船場の前にある古刹(こさつ)「浄泉寺」。境内には観音像と並んで龍馬の立像が建っている。
高さ約1メートルの「龍馬観音」。後方には、海援隊と紀州徳川家との別の交渉場所になったという対潮楼があり、龍馬の指差すかなたは、いろは丸沈没地点だという。
住職の大仲伸隆さん(60)によると、夢枕に龍馬が現れ、観音を拝み、くるっと回って右手でいろは丸を指差した。平成21年夏に完成した龍馬観音は、その夢を具現化したもの。「龍馬観音を中心に町おこしがしたい」と、大仲さんは張り切る。
龍馬の足跡は、いまなお鞆の浦の住民らの記憶にとどまり、勇気や夢を与え続けている。(竹室輝之、豊田大祐)
■「鞆の浦歴史民俗資料館」 鞆港や瀬戸内の島々を眺望できる高台にあり、瀬戸内海中央部の歴史や文化資料を収集・展示している市の施設。七首の万葉歌、源平史跡、史跡「朝鮮通信使遺跡・鞆福禅寺境内」などの資料や県史跡「鞆七卿落遺跡」関連資料などがある。開館時間は午前9〜午後5時。月曜休館。入館料150円。福山市鞆町後地536の1。(電)0849・82・1121
【関連:龍馬ゆかりの地を行く】
・ 港町が生んだ偉大な功績、丸山 龍馬ら海援隊の人気今も
・ お龍と童心に返った下関
・ 高杉晋作と語る夢、関門海峡 龍馬ゆかりの地を行く
・ 手紙が語る志士の魂 長浜
・ 龍馬の志開いた「脱藩の道」 河辺
・ 石川議員の拘置決定、釈放要求発議も可能(読売新聞)
・ 組織トップに2年で3千万円配当 ライブリーねずみ講事件(産経新聞)
・ <前原国交相>JR不採用問題「早く解決を」(毎日新聞)
・ <NTTドコモ>東京などで通信障害 (毎日新聞)
・ <万引き>千葉県警の警部逮捕 茨城の店で人形盗んだ疑い(毎日新聞)
最近の景観論争で一躍、脚光を浴びている「鞆の浦」(広島県福山市)。しかし、実は歴史上の大事件の舞台でもあった。幕末の志士、坂本龍馬とのかかわりで知られる、慶応3(1867)年に起きた「いろは丸沈没事件」である。国内初の蒸気船同士の衝突事故で、沈没した船に乗っていた龍馬ら海援隊一行は鞆の浦の中心部にあたる鞆に上陸。事故の相手方の紀州・徳川家と賠償交渉で堂々とわたり合い、海援隊の名を世間に知らしめた。
事件の概要は、次のようなものだ。慶応3年4月23日夜、宇治島(現広島県福山市)沖で、龍馬率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」(160トン)が、徳川御三家のひとつだった紀州の蒸気船「明光丸」(870トン)と衝突、沈没した。龍馬ら海援隊一行は明光丸に乗り移って鞆の浦に寄港、紀州側と4日間にわたって賠償交渉を行った。その後、舞台は長崎に移り、交渉は難航したが、最終的に龍馬側が紀州側から多額の賠償金を勝ち取った。
舞台は、護岸に石を階段状に据えた「雁木(がんぎ)」や、港のシンボルである石灯篭(とうろう)の常夜灯、国重要文化財の「太田家住宅」など、江戸時代から残る数少ない港湾遺産にも近い。
「当然、龍馬や海援隊の一行も、この雁木を踏みしめて行き来したはず。雁木は歴史を伝える生き証人であると思います」
江戸期の蔵を利用して近くに開設された「いろは丸展示館」館長の赤松宏記さん(67)は、こう語る。
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沈没現場の過去の潜水調査結果や、龍馬と鞆の関係など、貴重な資料が並ぶいろは丸展示館。引き上げられた帆船の滑車や索具、船室の蛇口やドアノブ、燃料の石炭。さらに、龍馬が鞆で滞在中に泊まった商家内で、用心のため使ったとされる隠れ部屋も再現、龍馬の息吹が伝わってくる。
「龍馬は、ファンの年齢層が幅広いことが特徴。リピーターを期待して、龍馬には町おこしに一役買ってもらったわけですが、人気は期待以上」と、赤松さんは話す。
鞆に残る龍馬ゆかりの地は多い。港から古い民家が軒を連ねる町並みをしばらく行くと、「御舟宿いろは」がある。事件で、龍馬らが紀州徳川家との賠償交渉で使った町役人の亀屋万蔵の旧宅を修復、改装した宿屋だ。
「家は歴史的に貴重な史跡。周辺の古い家屋もなくなりそうな危機感もあって、購入、運営を決断しました」と、NPO法人「鞆まちづくり工房」代表理事の松居秀子さん(58)。
白壁と格子に、色とりどりのギヤマンの窓が組み合わさった外観。入り口近くに喫茶室があり、奥には交渉の場となった部屋が再現されている。龍馬が残した走り書きをしたためた掛け軸や写真も飾られている。
松居さんは、鞆の浦の景観保全活動にも取り組み、鞆港の埋め立て架橋計画をめぐって反対住民が起こした訴訟では、原告団の中心的存在だ。
「紀州相手に談判する龍馬は、裁判を闘う私たちと、ある意味、似ており、その自在な活動は市民運動につながる面もあります。今考えてみれば、ご縁があったのかも」
自身の境遇をいろは丸沈没事件と重ね合わせ、松居さんは龍馬の雄姿に思いをはせた。
× ×
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鞆港や瀬戸内の島々を一望できる地に建つ「鞆の浦歴史民俗資料館」。平成20年秋、特別展「坂本龍馬といろは丸事件」が開かれた際、同館学芸員の園尾裕さん(56)は、史料探しに奔走した。
園尾さんが求めたのは、昭和63年出版の「龍馬全集」(宮地佐一郎編、光風社)に収録された「いろは丸航海日誌・付録草稿」。研究家数人に尋ねても分からず、博物館などに調査を依頼するなど手を尽くした。
それでも見つからず、あきらめかけたころ、NHK新潟放送局が20年前に放映した番組で、この史料を使っていたことを知った。
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「コピーは全部で32枚。最初の表紙は(海援隊士の)長岡謙吉以外の筆で『坂本龍馬手記イロハ丸航海日誌』とありました。史料は展示が終わって撤収すれば何も残らない。だから記録集を残すんです」
龍馬が鞆の浦にもたらした夢のような話をもうひとつ。鞆と対岸の仙酔島を結ぶ市営乗船場の前にある古刹(こさつ)「浄泉寺」。境内には観音像と並んで龍馬の立像が建っている。
高さ約1メートルの「龍馬観音」。後方には、海援隊と紀州徳川家との別の交渉場所になったという対潮楼があり、龍馬の指差すかなたは、いろは丸沈没地点だという。
住職の大仲伸隆さん(60)によると、夢枕に龍馬が現れ、観音を拝み、くるっと回って右手でいろは丸を指差した。平成21年夏に完成した龍馬観音は、その夢を具現化したもの。「龍馬観音を中心に町おこしがしたい」と、大仲さんは張り切る。
龍馬の足跡は、いまなお鞆の浦の住民らの記憶にとどまり、勇気や夢を与え続けている。(竹室輝之、豊田大祐)
■「鞆の浦歴史民俗資料館」 鞆港や瀬戸内の島々を眺望できる高台にあり、瀬戸内海中央部の歴史や文化資料を収集・展示している市の施設。七首の万葉歌、源平史跡、史跡「朝鮮通信使遺跡・鞆福禅寺境内」などの資料や県史跡「鞆七卿落遺跡」関連資料などがある。開館時間は午前9〜午後5時。月曜休館。入館料150円。福山市鞆町後地536の1。(電)0849・82・1121
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